シンガポール:脱炭素社会に向けて~カーボンクレジット市場の整備~
■はじめに
シンガポールは東南アジアで初めて炭素税を導入した国であり、2024年からは、炭素税対象企業が国際カーボンクレジット(ICC)を用いて、課税排出量の最大5%をオフセットできる制度が始まった。政府は「SG Green Plan 2030」において、2030年までに「アジアのカーボン・サービス・ハブ」になるという目標を掲げており、域内で高まるカーボンクレジット需要への対応を見据えている。こうした背景のもと、2025年6月には国家気候変動事務局(NCCS)、通商産業省(MTI)、シンガポール企業庁(EnterpriseSG)の3機関が共同で、企業による信頼性のある脱炭素計画の策定と実行を支援するためのガイドライン草案を発表した。2025年6月から7月にかけて、パブリックコンサルテーションが開始されており、本稿ではその草案「Annex A – Draft Guidance on Voluntary Carbon Market」の要点をまとめ、今後の動向について考察する。
出典: https://www.mti.gov.sg/newsroom/building-confidence-in-carbon-markets/
■背景
気候変動は人類の存続を脅かす深刻な脅威であり、企業は世界的な排出の主要因であると同時に、解決の担い手でもある。IMFによれば、ネットゼロ移行に必要な年間2兆ドルのうち80%を企業が担うとされる。
企業の脱炭素化は、技術導入、資金の動員、バリューチェーンへの波及など、多面的な効果をもたらす。先行する企業には、低炭素市場でのビジネス機会獲得という利点もある。今回公表されたガイドラインは、企業が信頼性ある脱炭素計画を策定・実行するにあたり、カーボンクレジットをどのように活用すべきかを示すものである。将来的なアップデートを前提とした「更新中の文書」であり、「カーボンニュートラル」や「ネットゼロ」などの主張を行う際は、その時の準拠する基準を明示し、それに沿った対応が求められる。
■企業の脱炭素化とカーボン市場の役割
脱炭素化の第一歩は排出量の測定・報告であり、次にパリ協定と整合する信頼性ある計画策定が必要となる。その実行においては、可能な限りの削減を優先し、残存排出への補完手段としてカーボンクレジットを活用することが原則である。
炭素市場は、クレジットの資金的価値によって脱炭素プロジェクトへの投資を促進する。世界銀行によれば、国際炭素市場を活用することで排出削減コストを最大32%削減できる可能性がある。
シンガポール政府は、企業が高品質の炭素クレジットを自主的に活用し、信頼できる脱炭素戦略を構築することを後押ししており、VCMの活用を積極的に推奨している。
■クレジットの選択
カーボンクレジットの選定では、ICCの7原則(追加性・恒久性・二重計上の回避等)を満たすことが基本となる。ICVCMやCORSIAなどの国際基準との整合性も重視される。
加えて、発行年(ヴィンテージ)が企業の排出目標期間に適合しているか、対応調整(CA)の有無が明示されているかも重要な判断材料となる。企業はクレジット単体だけでなく、ポートフォリオ全体でリスク管理を行うことが求められる。
カーボンクレジットの選定は、価格や数量の問題にとどまらず、信頼性・透明性・整合性という3つの柱を重視した慎重な判断が求められる。それこそが、企業の脱炭素行動における説得力を支える要素となる。
■クレジットの使用
クレジットは削減努力の補完手段として、科学的根拠に基づいた排出可能性評価を経て使用されるべきである。MACCや業界ベンチマークなどのツールを活用し、自社の残存排出量を特定することが重要だ。また、格付け・保険・第三者認証などを組み合わせたリスク分散型のポートフォリオ構築が推奨される。クレジットの質・出所・用途に関する透明性のある情報開示を行うことで、ステークホルダーからの信頼も高まる。
このように、カーボンクレジットの活用は単なる「購入」ではなく、選定・使用・開示を一体的に設計することが企業の気候戦略の信頼性と持続可能性を支える鍵となる。
■最後に
企業による質の高いカーボンクレジットの活用と、透明性の高い脱炭素計画の構築は、国際的な信頼と競争力の源泉となる。今後、シンガポールが整備を進める炭素市場の制度設計が、企業の気候戦略と東南アジア全体の脱炭素化に大きな影響を与えることになるだろう。
企業が信頼性のある脱炭素計画の一環として、カーボンクレジットをいかに適切に活用すべきか。そして、質の高いクレジットをどう選定していくか。こうした論点に対する具体的な方向性は、現在進行中のパブリックコンサルテーションを通じて寄せられる意見をもとに今後整理されていくだろう。シンガポールにおけるカーボンクレジット市場の制度設計がどのように進化していくのか。その動向を引き続き注視していきたい。

